講師は、元土井たか子衆議院議員秘書でアジアの女たちの会創立メンバーの五島昌子さん。出会い(1963年)から土井が亡くなる(2014年)までのほぼ半世紀にわたる国会の内外での活動の、当事者でしか知り得ない裏話が語られ、約30名の参加者は男性中心の政治世界で憲法護持、ジェンダー平等を追い求めた女性議員と女性秘書の堅い絆に感銘を受けた。
土井は1969年衆議院で成田知巳社会党委員長の強い要請を受け立候補・初当選を果たす。この選挙で社会党は議席を50名ほど激減させ、土井は90名の最後の当選者だった。美濃部都政を支えるため市川房枝らのたちあげた明るい革新都政をつくる会で働いていた五島は、土井から秘書を懇請され、つくる会代表委員の中野好夫に説得された。
五島の母は、戦前無産運動に身を投じ、戦後は社会党女性局の創設や砂川事件などの市民運動で活躍した渡邊道子である。五島も秘書業と同時に外務省機密漏洩事件(1971年)で逮捕された蓮見喜久子さんを守るおんなたちの会や、70年代~80年代に盛んになった中国帰国子女が直面した問題から父系主義の国籍法改正などを土井と共に闘った。当時、超党派の女性議員懇談会を束ねていた市川は、そうした運動に全面的に協力。内閣解散・総選挙になると必ず土井の議員室を訪れ、「あんたは弁が立つから」「必ず帰っておいでよ」と激励し、カンパをくれた、という。
土井は長期低落傾向にあった社会党の党首として党の起死回生を図り、1989年参院選では多数の土井チルドレンを誕生させ労働組合依存型の党組織を市民派へ脱皮させた。しかし91年統一地方選挙の敗北をうけ党首の座を田辺誠に交代した党大会で、そうした実績への評価はなかった。その後も土井は、1993年成立の細川内閣で、「党からの閣僚を出す」ため衆議院議長就任を説得され、また社民党に改称した党の長に再度就任を余儀なくされた。そこから見えてくることは、党利・党略の権力闘争に終始する男性政治の渦中で、「ダメなものはダメ」と政治家としての一線を外さず、「やるっきゃない」と男性の失政の助太刀に挑んだ潔い女性議員とそれを支え続けた女性秘書の逞しい姿である。