講師の藤原作弥さんは元時事通信解説委員長。
旧満州で幼少期を過ごし、1984年、45歳の時に『満州、少国民の戦記』を刊行した。その際、1945年8月14日に旧満州興安総省の葛根廟で日本人の女性や子ども、お年寄り約1200人が侵攻してきたソ連軍の一斉砲撃で虐殺された事件を知った。当時8歳の藤原氏も同じ町に住み、8月10日偶然一足先に脱出して難を免れたとして、この昭和史から日本の歩むべき道を学び、悲劇を語り継ぐ決意をしたという。
満州での体験や記者として米国駐在の経験もあることから、藤原さんは参議院議員山口淑子(李香蘭)から自伝執筆の協力を求められ、1987年『李香蘭私の半生』の共著者となった。山口淑子(本名)は1920年旧満州撫順に生まれた、女優「李香蘭」の芸名で一世を風靡した。類まれな美貌と美声に恵まれたが故に軍部に利用され、流転の人生を送った。日本人でありながら中国人と偽り、日本人でありながら国策の満映に使われ、二つの国の狭間で生きた「昭和史の申し子」だと評した。
敗戦後、漢奸罪に問われ、死刑判決の推測記事が出たが、戸籍謄本により日本人であることが証明されて無罪・国外退去となり、1946年4月帰国。女優として再デビュー後、1950年渡米し、女優として活躍しながら進歩的アメリカ人と交流、イサム・ノグチと結婚、離婚、帰国。1958年映画界より引退し、外交官と結婚。ワイドショー司会者などを経て1974年参院議員。自民党田中派の所属だったがリベラルで、彼女ほどタレント風を吹かさないで真面目な議員活動をした人はいなかった。老人問題や離島問題、動物愛護法、またパレスチナやアジア・アフリカなど弱い国の人々と交流した。また慰安婦問題ではアジア女性基金に関わり、当時考えられるだけのことをしたが、その後の動きに心を痛め、何とかしなければと語っていたと言う。 大杉栄らを虐殺した甘粕正彦元憲兵大尉(当時満映理事長)らとのエピソードを交えた昭和史の話は多岐にわたった。日本は軍国主義で失敗し、戦後は経済大国をめざしたが失敗した。大国ではなく、生活文化立国をめざせばよいと結んだ。
奇しくも3周忌にあたる9月。コーヒーブレイクの間、往年の美声「夜来香」「何日君再来」をCDで聴いた。