講師の児島恭子さんは日本古代史を専攻、早稲田大学在学中にアイヌ語を学び、爾来アイヌ民族の研究を続けてきた。現在札幌学院大学教授を務める。
第1声は「アイヌの人口はどの位でしょうか?」。2013年調査で16,000人余。地域でアイヌと認識されており、自分がそれを認めた人の数であり、他に何らかの理由で関東地方などに出てきた人が4000人位だという。アイヌは夷狄だとされた時代があり、1869(明治2)年に蝦夷地が北海道となって日本国民とされたものの、先住民としての権利はなく、それまでの生業を禁じられてなお自活を求められ生活は困窮した。アイヌは和人に負けないような立派な日本国民に、日本人としてのアイヌになりたいという意識で苦闘したと歴史を語った。
アイヌは日本人とされたことによって、アイヌ語やアイヌ文化は異言語・異文化として保持が認められなくなり、滅びゆく文化として貴重ではありながら保持・継承は無視されていた。そうした状況のなかで伝えられていたのは、我が子には立派な日本人になってほしいとの願いから、一世代超えた孫娘への伝承であった。『アイヌ神謡集』(1922年刊)は言語学者金田一京助との出会いによって口承文芸の価値を自覚した知里幸恵が、口伝えで謡い継がれてきたものを筆録し日本語に訳して書きあげたもので名著と言われている。
1950、60年代からのアイヌ語・アイヌ文化の学術的調査記録保存の過程で、その伝承者が発見されたが、多くは高齢女性であり、伝統的な技術・知識の伝承、樹皮織物や刺繍などの製作、舞踊やトンコリの演奏等であった。アイヌ文化の伝承が女性の文化に偏ったのは、アイヌ語を話すな、などの同化の圧力が、男性よりも女性に弱かったこと。コタン(アイヌ集落)で暮らす女性には暮らしの習慣など私的なものを身につける環境があったためであろうという。
1997年日本の中の多様性としてアイヌ文化を認定するアイヌ文化振興法が成立。北海道150周年となる現在、この50年の間にアイヌは福祉から民族の権利を求める動きへ、アイヌの歴史を表面化させる動きへ、文化振興の動きへと変化し、さらに国際的な先住民族の権利回復の潮流によって、日本の中の異民族として自己主張するようになった。
2020年東京オリンピックまでに、「国際観光や国際親善に寄与するため」民族共生象徴空間としての国立アイヌ民族博物館と慰霊施設が造られることが決定した。アイヌの人たちが自分たちのことを知ってほしいと長年運営してきたアイヌ民族博物館(1984年開館)は、国立博物館として再出発するが、これが国際親善や観光に寄与するのかという違和感があると言葉を継ぎ、最後に質問に答えた中で、多文化共生や多民族共生という言葉が上滑りしているのではないかと危惧の念を述べた。