1919年平塚らいてう、市川房枝らによって発足した「新婦人協会」は、女性の政治的権利を求めて活動し、閉ざされていた政治参加の道を一歩切り開いた。発会を告げたのは、この年の11月、大阪の「全関西婦人連合会」(当初、婦人会関西連合大会)の結成式においてであった。このシンポジウムは、戦前に大阪と東京で同日にスタートした二つの女性団体の地域を越えたつながり、政治参加の要求とその広がりを明らかにした。
報告1「新婦人協会と治安警察法の改正」
報告者の折井美耶子さん(近現代女性史研究者)は共編著に『新婦人協会の研究』 (2006年)、『新婦人協会の人』(2009年)などがある。
戦前、女性たちは政治領域から排除された。だが、明治10年代の自由民権運動では女性たちの政治活動は可能で、地方議会で投票をした例もある。その後、集会及び政社法につづく治安警察法(以下、治警法と略)が発布され、同法第5条によって女性の政治参加の道は一切閉ざされた。初期社会主義女性による治警法改正運動もあったが、成功しなかった。
大正期に、平塚らいてうは新しい社会を構想して新婦人協会の創設を市川房枝に相談した。1919年平塚は婦人会関西連合大会の招きを機に大阪で同協会の結成を発表した。同協会は「治警法第5条の修正」と「花柳病〔性病〕男子結婚制限法」の国会請願運動に取り組み、奥むめおも加わった。だが、会の財政は厳しく、活動の負担は主に平塚と市川にのしかかった。過労で平塚は体調を崩し、市川は渡米を決意するに至る。その後は奥らが担った。22年3月第5条第2項「女子及」の3字削除が実現し、女性は政治結社の参加および発起人になることが可能となり、12月同協会は解散した。
関東大震災の救援活動で東京連合婦人会が結成され、これを母体として婦選獲得同盟が発足した。同盟に市川も加わり、運動を主導した。戦争で運動は中断するが、戦後女性たちは女性参政権を獲得した。市川は早くも45年8月25日に戦後対策婦人委員会を結成している。
報告2「全関西婦人連合会―女性ネットワークの誕生」
報告者の石月静恵さん(桜花学園大学客員教授)は1976年「全関西婦人連合会の成立と展開」(『ヒストリア』70号)を発表、著書『戦間期の女性運動』(1996年、新装版2001年)など、共編著『女性ネットワークの誕生??全関西婦人連合会100年』(仮題)が近刊予定である。
1919年11月、婦人会関西連合大会(以下、全関西と略)が大阪朝日新聞社の主催により開かれ、東海から九州地方まで関西を中心に4千人あまりの女性たちが参加した。この大会に招かれた平塚は新婦人協会の創立趣旨書を配布した。以後、全関西は女性の政治参加を運動の柱の一つに置く。
同大会はほぼ毎年開かれ(41年第22回まで)、23年全関西婦人連合会と改称した。関東大震災の時には東京連合婦人会に協力して救援活動に着手し、婦選獲得同盟が成立すると、提携して請願署名運動を積極的に行った。27年に主催が大阪朝日から全関西に移行し、理事長を恩田和子(大阪朝日記者)が務めた。市川は全関西を訪ね、恩田とも交流を続けた。全関西は西日本の婦選運動の核として全日本婦選大会の後援団体にも名を連ねている。組織的には緩やかであったが、女性参政権のほかに物価・教育問題をはじめ多岐にわたって活動を展開し、女性たちのネットワーク化に貢献した。
報告後の質疑応答で、折井さんは市川房枝とのインタビューについて語った。市川は堀切善次郎の証言をあげ、戦後の女性参政権はGHQ5大改革指令の前日にすでに閣議決定されていたことを強調したという。女性参政権はマッカーサーからのプレゼントではない――市川の遺言とも言うべき言葉である。新婦人協会は市川にとって運動の出立点であり、69年に協会50周年記念の集まりを婦選会館で開いている。シンポジウムの会場では、その時に掲示した市川自筆の「新婦人協会年表」を補修して貼りだし、好評を得た。同時に記念特別展も開催された(10/30~11/末)。両報告要旨は『女性展望』702号、2020年1-2月に掲載予定である。(幸)