講師の矢野久美子さんは思想史、政治文化論が専門で、フェリス女学院大学国際交流学部教授。『ハンナ・アーレント 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』『ハンナ・アーレント、あるいは政治的思考の場所』などの著書がある。
矢野さんがユダヤ人の政治哲学者ハンナ・アーレントの研究を始めてから30年になるという。アーレントは1906年ドイツに生まれたが、41年ナチの迫害を逃れてアメリカに亡命し、評論活動を行った。51年『全体主義の起原』を、63年『イェルサレムのアイヒマン』を著わしたが、ユダヤ人や一部の人たちの間で注目を集めただけで、哲学者あるいは政治学者としての地位を獲得したわけではなく、75年に亡くなってから忘れ去られた存在だった。
日本では71年に『全体主義の起原』が、その後『イェルサレムのアイヒマン』『人間の条件』等も翻訳されたが、初版のままで絶版になったものが多い。日本だけではなく彼女が生れたドイツでも同じで、彼女のことや著作はあまり知られていなかった。
注目されるようになったのは、1980年代にヤング・ブルーエルの『ハンナ・アーレント伝』が出てその生涯が明らかになってからであり、日本でも85年ころ伝記の翻訳も出たが、目立った動きはなかった。89年、ベルリンの壁崩壊に代表される東欧革命で東欧が民主化され、90年代以降、アーレント・ルネッサンスと名づけられている現象が起こり、普通の人々が著書を手に取ることができるようになった。それ以前にブルガリアやユーゴなどの人々が、隠れてアーレントを読んでいたということが後に知られた。
『全体主義の起原』は今、多くの言語に翻訳されており、「反ユダヤ主義」「帝国主義」「全体主義」の3部構成で、具体的に分析したのはソ連のボルシェヴィズムとナチスドイツである。「反ユダヤ主義」では現代社会の大衆はイデオロギーに感染しやすく、常識が通用しなくなっていくこととユダヤ主義の増大が並行しているとする。
「帝国主義」では難民問題を論じて、自国を迫害者によって追放された人間に対して、「帰化取り消しと国籍剥奪は全体主義政権の国際政治における最も効果的な武器の一つ」であり、「全体主義政権自身の基準をとることを強制できたから」と分析した。「人権の喪失が起こるのは、通常人権として数えられる権利のどれかを失った時ではなく、人間が世界における足場を失ったときのみである」、「市民権において保証される自由とか平等とかよりもはるかに根本的なものが危うくされている」として「権利を持つ権利」を唱えた。これは第二次世界大戦後の「世界人権宣言」や難民への保障に繋がるものではあるが、現在も世界の実状は変わらず、改めて注目されている。
「全体主義」を論じる中でアーレントが指摘したのは、「見捨てられていること」。英語ではLoneliness、ドイツ語では神に見捨てられたという意味の Verlassenheitが使われている。「テロルのもたらす複数性の破壊は、一人一人の個人の心にすべての人間から完全に見捨てられたという感情を残す」。すなわち、全体主義の密告制度や秘密警察は、人と人のあらゆる結びつきを破壊し、その結果人々は何も信じられなくなる。見捨てられた状態ではイデオロギーを信じやすくなり、それに従って行動する。イデオロギーとテロルは全体主義的支配の両輪なのだという。「見捨てられていること」は全体主義支配が終わっても残っているものであり、現代に於いても1人ひとりが真剣に受け止めなければならない問題であると矢野さんは述べた。
1958年アーレントは「教育の危機」と「文化の危機」という講演を行っている。「教育の危機」とは学校は世界を愛することを子どもたちに教える場であるが、世界についての知識を教えることよりも、ノウハウを教える場に変化しており、世界を愛せない状況が生み出されているという。「文化の危機」では世界を愛する素材になるものが文化であり、人間が築き上げてきた芸術や文学も含めた様々なものが、政治介入や消費社会の中で消費の対象に、そして娯楽産業になってしまうことによって、世界を愛する対象がなくなっていると分析し、世界を愛する能力を失わせ、世界の不満や嫌悪を増長すると述べる。
矢野さんは2019年10月に開催された「女性・戦争・人権学会」で、シンポジウム「学問の自由と政治-フェミニズム・バッシングの歴史と現在」」のパネリストをつとめたことに触れ、「あいちトリエンナーレ」の表現の自由や学問の自由の問題、さらにフェミニズム・バッシングも含めて、アーレントの文化について考え続けてきたと述べた。バックラッシュやバッシングは今まで築き上げてきた文化を破壊する行為であって、愛する行為には繋がらない。今いたるところで広がっている自由の破壊は、人々が世界を愛せなくなっている状況を生み出しているのではないかと思うと語った。(や)