足尾銅山の公害問題を告発した田中正造は「デンキ開ケテ、世見暗夜となれり・・・質あり文なし、知あり徳なきに苦しむなり」と日記に書いた。同様に、原子力発電の技術進歩も、それを制御する倫理観を欠く。あるいは「鉱山は一時なり、農業は永久なり」「金は一時、放射能は末代まで」という言葉も、この50年を振り返って痛感する。
原発の危険性は、すでにスリーマイル島事故(1979年)やチェルノブイリ事故(86年)によって明らかだった。東電・福島第一原発事故(2011年)の終わりは見えない。放射性物質は「たれ流し」、廃炉の具体的な見通しもなく、子どもの甲状腺がんは増加した。上からの攻撃に弱い原発は、戦時には格好の標的であり、核爆弾を設営しているようなものだ。
1969年に発表された新潟県(東電)柏崎刈羽原発の計画に対しては、活発な住民の反対運動が展開されて、全国初の住民投票も実施された(72年)。しかし、電源三法による交付金をはじめ、周辺も含めた「地域丸ごと買収策」が露骨に展開された。ちなみに、電気料金には原発費用は明示されず、消費者はそれと知らずに費用を負担している。
柏崎刈羽の原発用地は、地質調査で軟弱地盤であることが確認されたにもかかわらず、「豆腐の上の原発」建設が強行された。1号機運転開始(1985年)後も様々な反対運動は続いているが、97年には7号機が稼働するに至った。2007年の中越沖地震が柏崎刈羽原発にかなりの破損を生じたことから、福島第一原発に「免震重要棟」が設けられた。昨年(2021年)4月には、テロ対策の不備から原子力規制委員会は柏崎刈羽原発に「運転禁止」を命じた。また、津波退避をうたうコミュニティ・センターには、30人分3日間の備えしかない一方で、空気清浄機は核戦争を想定するイスラエル製である。広域避難計画といっても、冬には積雪のため移動が難しい。
田中正造が「公益々々と呼ぶも、人権を去って他に公益の湧き出るよしも無之と存じ候」と書簡にしたためたように、原発推進政策の50年は、「公益」を「人権」無視の「国益」にすり替えてきたと言えるのではないだろうか。
さらに、原発をめぐる「利益誘導」の内容について、質問が出されたことをきっかけに、日本における原発推進政策の歴史からは、原発誘致が地域発展に繋がらず、むしろ、原発の増設や名目を変えた補助金・交付金の要求など、原発依存を生み出す実態についても論じられた。(眞)
【イベント詳細】2021連続講座「進めたい「いま」、弾力ある社会へ」
講師 |
2022年3月12日(土)13:30〜15:30 「原発推進政策と原発反対運動の50年」講師:菅井益郎さん(国学院大学名誉教授) |
形式 |
オンライン(zoomウェビナー) |
参加費 |
1,100円(税込) |
定員 | 50名(要予約) |
【メッセージ】この半世紀あまりの原発推進政策と地域住民の抵抗運動の歴史を概観し、度重なる重大事故の発生により原発推進論が破綻する一方、再生可能エネルギーの急速に拡大してきた現実から原発ゼロ社会の近未来を展望する。原発の危険性は1979年のTMI原発事故、1986年のチェルノブイリ原発事故、そして2011年の東電福島第一原発事故を見れば明らかで、福島原発事故はまだ終っておらず、放射性廃棄物の最終処分の方法も見通しもない。原発依存は人類を滅亡に導く。
【プロフィール】1946年柏崎市生まれ。早大政経時代に大学闘争、ベトナム反戦運動に参加。1969年秋、柏崎原発反対運動に参加。一橋大学大学院在学中、原子力資料情報室の設置に関わる。1991年市民エネルギー研究所研究員。日本公害史研究。